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KHKの歴史 - 歯車一筋
第21話
裏方として富蔵を守った
妻・ふで | 
日刊工業新聞に掲載された写真
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富蔵の妻・ふで。富蔵の人生は妻のふで抜きで語ることができない。それは小原家にとっても、小原歯車工業にとっても同じことが言える―――。
ふでは明治三十九年、入間郡富岡村で生まれた。富蔵とは昭和八年五月に結婚。男三人、女二人の五人の子供を育てた。
昭和十年に富蔵が独立して以来、常に陰になり日なたになって富蔵の仕事を終始助けた。創業時、借金の返済のために、富蔵と共に寝食を忘れて働き、今日の礎石をつくった。
戦後の混乱期も富蔵の仕事を助けながら五人の子供の養育。そして会社の成長と同時に増えていった富蔵の公職や役職、そのいずれの場合にもふでは裏方として富蔵の仕事を陰から支えた。
ここに昭和四十一年五月十四日付日刊工業新聞の連載物『内助の功』でふでを扱った記事があるので紹介しよう。
小原さんの身の回り一切の面倒を見るのはふで夫人の役目。真赤な車を駆って組合事務所へ埼玉県庁へと忙しく飛び回るご主人だけに夫人の気苦労もひとしお。
数年前は地元の婦人会などに顔を出していたが、最近はすっかり家庭にこもっており、小原さんが留守のときはお孫さんが相手。食事を共にするのもまれなので「まるで家族じゃないみたいです」とふで夫人はちょっぴりさびしそう。
しかし今でこそ家庭婦人におさまっているが創業時代は油にまみれて働いたという。「四尺旋盤一台で主人と二人ではじめたものです」と語る夫人の表情には苦難を共にしたご主人に対する信頼感と自信があふれている。小原さんは「点数をつけるなら五十点以上。それ以下ならとっくに別れているよ」とニヤニヤ。
年商二億円近くをあげる今日の小原歯車工業の基礎を作ったのは内助の功は動かすことの出来ない実績らしい。夫婦揃っての”ひのえうま”の五十九歳。「もう少し家族団らんの時間があればいいのですが」と、そればかりがふで夫人の悩みという。
ふで夫人を語るにふさわしい紹介記事である。
稲田巧氏は「たしかに下手な職人顔負けの腕を持った奥さんでした。またどんなに嫌な事があっても顔に出さない出来た人でした。」と語っている。
小原金雄氏は「働き者の奥さんで、とにかく労を惜しまない人でした。先代の社長が会社を一代で築き上げられたのも、たくさんの公職、役職をこなせてこられたのも内助の功が大である」と語っている。
そして、いまは嫁がれた長女の菊江さん、次女の勝代さんにお父さんの思い出を聞いた時、最後に言われた言葉は「たしかに父は立派でした。たくさんの仕事をしました。でも父がなした仕事の大半は、母の功績といってもいい。だって留守がちの父に代わって家庭の大黒柱として頑張ったんですもの…」と異口同音に強調された。その妻・ふでも昭和五十一年十月十七日その生涯を安らかに閉じた。
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